中里恒子著『時雨の記』

鎌倉で隠棲したように暮らす四十代の未亡人と、妻子持ちの五十代の男性が重ねる逢瀬を情緒豊かに描いた黄昏文学の名作。
奇しくも「世界の中心で、愛をさけぶ」を読む直前に読んだのがこれ。死別による悲恋モノであるところが一致している。大きな違いは、年齢と、相手に死別されても哀切で「さけぶ」というのではないところか。しずかにひっそりとその事実を受け止めて、ふとしたおりにその不在にしめつけられるような寂量感を覚えるというような具合。まあ、年齢が年齢だからとはいえるかもしれないが、平均年齢70代なのだから早逝だよね。
男はかつて一目ぼれした女性に再開して胸をはやらせる。とはいえ逢ったのは一度きりでしかも会話らしい会話もしていないのだが、ほぼ二十年ぶりに逢い、やはりこの人なのだと思い込むやいなや、相手の否やを考えず、やらない後悔よりもやった後悔という座右の銘でもあるのか、まあ、大企業の社長をやるようなバリバリのやり手だから動きは早いんだろう、「明日、お宅に伺っていいですか」、そして翌日天ぷらかかえて「えへ、きちゃった」「あら、本当にいらっしゃったのね」みたいな勢いでオンナにアプローチをしはじめる。天ぷらをさしだすおしかけ男に「嬉しい。あたし、天ぷらなんてひさしぶり」とバクバク食いだす未亡人、男はそのバクバクぶりをみて、さらに惚れ直すというのが恋の導入部(※台詞は改ざんしてます)。
しかし、男のやりかたは「えへ、きちゃった」のくせに、飄々としていて厭らしさや軽薄さが感じられない。君といると楽しいんだ、みたいなことをさらりとぬかしてもである。鎌倉の「女独りのわび住まい」でふたりきりになっても、ムリにせまったりするわけがない。あ、なんかキスしたいなと衝動的にその身体を腕の中にとらえてみても、女にかわせるだけの余裕をきっちりと残す。大人だ。余裕がある。ではふたりでいて何をするかというと、女の家(嫁ぎ先は没落したが元旧家)の茶道具(彼女はお茶の先生なの)についてひとしきり品定めをかわしあい、男はその知識をさりげなく披露する。だが、昨日今日のにわか通が薀蓄たれるような浮いた加減がない。さらりと、知識が当たり前のように身に着いてるというふう。出自の違い。こういうのが真の粋ってやつなんだろう。
女の家の描写もよい。こじんまりとした鄙屋で、古いものや日常のこまこまとしたものが手に取るように見える場所にある。男はそこに安らぎを覚える。古都鎌倉という舞台も効果的。行間のふしぶしからかもし出されてくる情感が、すべていい。著者の気遣いがゆきとどいている。日本美というものをかんじさせる。
サブキャラの運転手さん夫婦もよい。
こうなったら是非とも映画版も見てみたい。キャストはたたずまいの美しそうな二人である。監督は澤井信一郎。トラック野郎シリーズでは脚本を担当、監督としては松田聖子の『野菊の墓』、薬師丸ひろ子が女優開眼したといわれた『Wの悲劇』などを、といわれるとちと路線が不明だが、原田知世主演の『早春物語』ならば納得。叙情的映像がとても美しかった。『時雨』も期待できそうだ。おりしもツタヤで半額セール中とは、借りろというご託宣?