片山恭一著『世界の中心で、愛をさけぶ』

ぼくは白血病で最愛の女性を失った。その1ヶ月後、逝ったアキの遺志を果たすため遺灰を撒葬しにオーストラリアへと旅をする。回想で綴る青春悲恋物語
これが‘せかちゅー’か。
図書館で借りた本を鞄に忍ばせていった帰り路、始発電車に座って走り出すまでの手持ち無沙汰な6分間に読もうかなと鞄に手をつっこんだものの、なんか気はずかしくてとりだせなかった。誰もみちゃおらんのはわかっておる。それでもあまりにもベストセラーでしかもピュアラブなことが知れ渡っている本は、照れる。超ベストセラー、しかもピュアラブ。これだけでもかなりの先入観。映画は大ヒット、ドラマは初回で挫折。うんざりするほどの先入観の中心で、アタシは読む。マイナス要素はじゅうぶんすぎる。そういう状況で手にとってしまった不幸が、この感想には多分に盛り込まれていることを先にお断りしておきます。ネタばれもあり。と、ここまでが注意書き。
冒頭の1章目を読み終えてちょっと「うん?」と首を捻る。うーん、どうしよう、あまり乗れない。戦争で引き裂かれた祖父の恋、朔太郎が中学生のときにラジオに投稿した手紙。まずアキとの不幸な別れを暗示させる伏線がふたつ張られるが、えー、ふたつもいらない。どちらかいっぽうだけでよかったように思う。それがなんとなく作り話しめいた感じをいっそう濃くしてしまっている。
2章目以降でアキとぼくとの高校生らしい恋愛風景が描かれていく。性に目覚めた男子と、もう少しこのままでいようよとかわす女子の普通の恋愛風景はピュアなばかりでもなくて、でもそれゆえにいっそうかわいらしい。ファーストキスのシーンなどはできすぎだ。「うっとり」というよりは「ふーん」という感じ。
そして後半に入ると、なんの前触れもなくアキは入院しており、闘病生活がはじまっていたりする。不治の病の女性とそれを見守る彼氏の描写はまるで平成版「愛と死をみつめて*1だが、平成版だけあってわりと平板。どこもかしこもアタシの想像の範疇をでない。驚きがない。驚きがほしいのか?といわれると、ちと困りますが。やっぱ鮮度はほしいよね。そのような邪心を感じてしまうのは、本書が朔太郎の一人称で、朔太郎の目を通したアキ、朔太郎に見られていることを意識して振舞っているアキしか語られておらず、アキ自身の生(なま)の気持ちがうかがえないからかもしれないし、やっぱり闘病の描き方が通り一遍だからかもしれない。もっというと、高校生からの視点なので、医者からの病気に対する説明がなされないのもそうした物足りなさに一役買っている。彼女の両親が厳粛な事実をいかに受け止めたのかもみえてこない。まるで両親は顔のないマネキンのようだ。アキの葛藤もおぼろである。いつの間にか入院して少しずつ弱っていって、そしてあっけなく去る。
それは本書の性格上いたしかたのないことでもある。患者に何という抗癌剤が何ppm投与され、どんな副作用があり今朝の血液検査の白血球数はうんぬんなどという医学的所見が緻密になされる必要などどこにあろうか。あくまでも朔太郎という思い込みの激しい、センチメンタルな男の子が、彼女のいない世界に生きていることは、生きていないことに等しいと思うほどにひとりの女性を愛したのだという心の記録に徹しているのだから。
それゆえにいっそう、なんとかならなかったのかと思われる。朔太郎が単に美化した思い出を並べて、女々しい言い訳をぐだぐだしてくだをまいている自己中に過ぎなかったのかという気にさせてしまう、最後のシーン。アタシはそれこそ世界の中心で叫びたくなるほど、蛇足でむなしく感じたのでありました。唐突すぎるんだもの。人によっては(著者は当然である)、ラストシーンこそがこの本の要だろ!と言いたかろうが。
片山さんの本は「空のレンズ」というのを読んだことがある。「空」「世界」どちらも、著者の実年齢に比べて内容も文も驚くほどに青臭い。悪い意味でとらないでほしい。そうでなくて、刈りたての芝草が発するような、張り替えたばかりの畳寝転んだときにかぐような、不思議にきゅんとするようなよい匂いなのだから。本書ももしも出会いが不幸なカタチでさえなければ、もしかすると「ひっそりと大事にしたい本」になったかもしれない……いや、どうだろう?

*1:「愛と死を」はミコこと大島みちるとマコこと河野実の共著のノンフィクション闘病記。1964年に吉永小百合浜田光夫で映画化。「マコ、甘えてばかりでごめんね〜」という吉永小百合の歌は泣けます。