J.オースティン著『マンスフィールド・パーク』

貧乏子沢山ファミリーから伯父の大邸宅にひきとられたファニーが、従兄エドマンド(次男)に対する思慕を胸に秘め、上流社会の中で若干おどおどしつつ成長していく物語。
ファニーとエドマンド、ふたりして性格が暗い。堅苦しいほどに生真面目なせいで、他人の言動のはしばしに過剰反応する。あとで二人っきりになると、「あれはちょっとよくないね」「ええ、私もそう思いました」「彼女自身はとても素晴らしい人なんだけれども、おそらく育った環境に問題があって、ゆがめられてしまったんだね」などと、こそこそ批評をして心を通わせあうのです。自分たちは気が合うよねー、育ちがいいんだ、なんていい気分になっている。ね、ちと暗いでしょう?
最近立て続けにオースティン作品を読んだり、DVDで見たりしていますが、主人公ってのは決して非の打ち所のない女性というわけではないのですね。それなりにみな欠点がある。「エマ」のエマは独善的、「説得」のアンは卑屈といったように。そして人のフリみるとつい批判せずにいられない、小姑体質はわりと一貫しております。
ストーリーはいつものパターン。最終的には主人公の女性が、美貌*1と家柄と財産を持ったひとかどの男性と結ばれてめでたしめでたしになる。読者にとっては自明でも、主人公本人にとっては最後の最後に思いがけずも不意打ちのような相手あるいは形でハッピーエンド。なんだよ、男は金と顔かよ、みたいな気がしてきますが。
さて本編のほとんどでファニーは片思いです。このときには従兄からは妹によせるような愛情しかもらえていないのが、いくらか目新しい。「実は君がずっと好きだったんだー」なんてな熱く一途な想いを持っていたりしないのです。エドマンドはいつも批判の俎上にのせている女性にお熱なのですね。批判するのは、彼女のことを話していたいという気持ちもあるんでしょう。ファニーは複雑。エドマンドは自分にはない奔放さと明るさに、好ましさと厭わしさの相反する気持ちを育て、「素行はいまいちよろしくないが、きっと自分の力で矯正できるだろう」という前提つきで恋心を募らせるのです。憤慨しつつも無視できない、で、惹かれていくというわけ。ま、最終的には「きっと矯正はできるけれども、もうあきらめるよ」みたいになって「彼女のようなタイプにはもう恋はできない。だって彼女ほどの女性にはもう二度と会えないだろうから(未練たらたら)。でも彼女とは違うタイプの女性になら恋ができるかもしれない。たとえば…」そしてようやくファニーを愛する自分というものが有り得るのだと気づくのです。そうしたエドマンドの心変わりのくだりは最後の15ページほど、後日談のような形で超駆け足で語られてしまうのが、ハーレクインとは違うところ。ハーレクインならば、最後の15ページこそが本編になるところでしょう。
とはいえ500ページくらいの大作で、話が佳境にはいるまでの400ページぐらいはいくぶん退屈。ファニーは常に後ろに一歩控えた地味な存在。周囲からの評価は低く、賢くはないが言いつけた用事はちゃんとできる、顔もキレイではないが彼女を好きになる男性もいないわけではないでしょう、と言われてします。ひ、ひどい。それが400ページすぎたあたりから、急にモテモテになるのです。ここからが面白い。そのモテモテたるや、すごいです。彼女にお熱をあげた男性からの積極的なアプローチは、ストーカーに迫られてあたふたしているみたい。この当時には、本人の気持ちはお構いなしで周囲から「これはいい縁組だ」といったん看做されると、好きでもない男のトコに嫁にやられるなんて当たり前のことだったんでしょうね。
面白くなるまでの400ページは、当時の上流社会のひとびとのありようが描かれているのを楽しみましょう。基本的に家長以外は、「散歩する」「食事をする」「会話を楽しむ」ぐらいのことしかしていないのですが(笑)。

*1:男性に対しても美醜がすごく重要なポイントだったみたいです。顔がきれいなら心もきれいという理論で。