『ラスト・クリスマス』第10回


ついに闘病生活だぴょん。んふふ、見た人にだけわかる「ぴょん」なり〜。浮かれた気分を引きずって職場でつい「○○なりぃ」と口走ってしまったケンジ(織田っち)が妙にかわいらしゅうございました。いかんのう、だいぶ織田マジックにはまっているかも。
そう闘病ですよ、闘病。ユキの父ちゃんがケンジに娘のことを話すシーン、海辺で「(こんなにつらくなるならいっそ)ケンジに会わなきゃよかった」とのたまうシーン、「ケンジが大好きだよ」というシーンなど、そのつど「好きだよ、朔ちゃん」という声が脳内に再生されちゃいました。ふとしたセリフやシーンにセカチューが重なります。まあ、どっちも若い恋人同士(いや、1名だけあまり若くありません)で明るく可憐なオンナが不治の病におかされて、というパターンならば重なって当然ですわい。あまりこの路線をはずれすぎると「そんな親いねーよ」とか「そんな病人いねーよ」とかいう非難ごうごうになるのでしょう。そういう非難はユキの元旦那の姉ちゃんの「はずれの嫁をつかまされた…」に一手集中。そんなひどいこと言うやついまどきいねーだろ、いやいや、実際こういう人はまだまだ多いんだよねというのが現実だと即座に自己完結。
登場時間の異様に短かった、同室の同病の女性、目がぱっちりとしていてちょっと見、矢田っちに似ておりやした。もしやかわいい人だけがかかる病気なのかみたいな。枕元に付き添い手を握って励ます恋人(夫かな?)、額の後退具合が気になるのは止む無しですが、お互いの存在を確かめ合っている姿にはツンとくるものあり。かたやケンジを病室入室禁止にしたユキ。闘病している姿を見られたくないの、あのアパートに居たアタシがケンジの中のアタシなの、というユキの気持ちもよくわかるけど、愛する女性との限られた(限られているかもしれない)時間を少しでも長く共にすごしたいと願うケンジの切なさを汲んであげたいもんです。ケンジがちと哀れで。
ケンジ、ラストではついに号泣してたしね。初めてみました、織田っちの号泣シーン。どーもアタシの中じゃ織田はあんなふうに涙を流す人にみえないもんで、ってなとこを言うとアタシの人間性のほうが疑われかねません。「踊る」もあまりみてないので、もしかしたら青島は現場で泣きじゃくっていたりしたのかもしれません。でもアタシにとってのイメージは「振り向けば奴がいる」の傲岸不遜なあまりに天誅がくだった司馬先生こそが近い。鬼の目にもとい織田の目に涙、号泣というよりは、泣きじゃくりでしたね。うん。きゅんとしましたし、かなり演技者として見直しました。泣きじゃくり織田ケンジを見た後でも織田裕二本体は私生活では泣かなさそうと思ってしまうので、それなのにこんな演技もできるのねと穿った感心の仕方をしていたりして。す、すんません。
しかし先週のが胸にツーンときましたね。明るさの中に悲劇を予感させた先週よりも、今週は悲劇性が前面におしだされてきたにもかかわらず、逆にさめた目でみていたりしたところがあったのはなぜなんでしょう。「世界の中心で、愛をさけぶ」「黄泉がえり」「今、会いに行きます」「ラスト・クリスマス」、そして再販が決まった「愛と死をみつめて」。「純愛」というキーワードでくくられる一連の流行り作品がおしなべてうら若き恋人(女)の死というエッセンスを要しているという点に、曲がったおへそが反応するのかもしれません。