アタシがアラレちゃんだった頃

hal8182004-06-29


モノなんてほんの一瞬の油断で壊れてしまう。後から、もしもあの時きちんと扉を閉めていたらとか、電気をつけて歩いていたらとか、もう少しゆっくり動いていたらとか、もうありとあらゆる反省点が絶え間なく頭を掠めていくが、どんなに反省してももとには戻らないものはもどらない。いまでも心は少し虚ろ、放心状態をひきずっている。
廊下の電気をつけずに洗面所へ向かったとき、わずか10分ほど前に鉢植えをさがしてあけた物入れの扉がはんぶん浮いたままになっていたのは、どう考えても自分が悪い。だからそこへ勢いよくどーんとぶつかって、メガネが壊れてしまったことはいくら考えてもひたすら自分だけが悪い。そう、めがねなのだよ。めがねの弦が折れて落っこちたぁぁぁ。……。その瞬間、頭の中にたくさんのブラックホールが生まれてしまうほどに動揺をして、あまつさえ涙がほろりときてしまったのは鼻の頭への衝撃ばかりのせいではない。
影に日向に雨の日も風の日も、10年以上アタシの一部だった愛しいメガネ。でも、お別れはなんて突然であっけないんだ。そりゃあ10年もおんなじメガネをしているなんていうのが、あまり普通でないのはわかっている。度は進んでるだろうし、プラスチックレンズはもうキズだらけで、キズだけで少し景色が曇って見える。「そろそろ買い換えたいなとは思っているんだ」なんて口にしてみたことも一度や二度じゃない。でも本当に別れたいと思っていたわけではない。腐れ縁? それはある。でもそれよりなにより、寝るとき以外はメガネを手放せない強度近視でコンタクトが合わないアタシにとって、めがねってのは本当に顔の一部なのだ。メガネ一つで人相がきまる。だからメガネをかえるということは、これから数年間のアタシの人相をかえるということ。大げさだとおもうだろう、たしかに大げさ。でも女にとっちゃやっぱ重大な問題だろ?
とりあえず、めがねがないと家の中を歩くのですら不安なので、万一のときのためにしまっておいた昔のを捜す。幸いにして、記憶どおりの引き出しにきちんとしまわれていて一安心。手に持ってみる。うっ、お、重い!? 掛けてみる。で、でかい…! 鏡でみてみる。。。なんじゃこりゃー!?
昔のレンズはガラスのレンズで重くて分厚い。当時最先端の薄型にしたはずなのだが、プラスチック製に比べると激しく重い。こんな重いものをよくもまあ一日中鼻の上に乗っけていられたもんだ。頭痛がしそう。レンズ表面積も2倍くらいある。でかい。とにかくでかい。かけると、顔の半分くらいを覆う。ほんとに、今度はおおげさじゃなく。しかも太い黒縁で、フレームの形は縦に長いというなんとも不思議な形状。あれだ。鼻と口ひげが付いたパーティの余興グッズにいかにもありそうな、全時代的黒縁。
これホントにアタシが掛けてたんだよね? コレを掛けたアタシの顔がまた傑作ってか、泣けてくる。だってものすごくなんつーか、ブス? うーん、ブスな、ブス的な、ブスっぽいってか、はっきりいって断定的にブス。もうなんとも言いようがない、ブスブスブス。今のアタシがナンボのもんじゃいって話しはあるが、それにしたって、マジ、ダサいにもほどがある。コミケでだっていまやこんなのは絶滅しておろうほどに、わずか10年さかのぼったアタシって、こーんな変装グッズ的メガネかけて平然と街を闊歩していたとはな。われながらすごいなぁ。ある意味尊敬に値します。おしゃれにも洋服にもまるきり感心がなかったはずだよ、これじゃあね。でもなんとなく見つづけているとそれなりに、面白い。このひと世代前のメガネも似たり寄ったりで違いは縁が赤かったことぐらい。そんな赤縁メガネを掛けていた頃「アラレちゃん」と呼ばれていたときもあったなあと懐かしいことを思い出した。今だと、かなり老け込んだアラレちゃんだ。うっほほーい、きぃぃーん。
当時のヘンなアタシにもそれなりに哀愁は感じる。しかし明日、老けたアラレちゃん状態で職場にでむく根性は今のアタシにはない。「次にメガネを作るときには、もう少しおしゃれなメガネが作りたいな」なんてこいてた余裕もない。メガネがないアタシはがけっぷちだ、人相が悪くならないような無難なメガネで結構。ついでにいうと今はあんまりお金もない。ないないづくしで、壊れたメガネの縁をさらにテープで補強して数日しのぎ(しのがんでかっ!!)、明日は帰りにメガネスーパーに寄ろうと決意したのであった。
写真。
両者を並べて撮ってみた。なにやら夫婦眼鏡のようだ。むかって左が現在のメガネ、右が当時のメガネ。その大きさの違いがわかってもらえるだろうか。ちなみに現在のメガネが一見壊れていないのは、超強力接着剤で固定中なのである。これでうまいこと接着してくれると一番よいのだが。
あーあ、たかがメガネでこんなに書いちゃった。