『再考 近代日本の絵画』


東京藝術大学大学美術館と東京都現代美術館の連動企画(主催にはほかにセゾン現代美術館(軽井沢)も)。20世紀の日本の絵画から主催3館の所蔵品を中心に2会場で600余点を展示。<4/10-6/20>

上村松園黒田清輝横尾忠則が一同に会した、といえばイメージがつたわるだろうか。重鎮による頑固職人的日本画から、欧米化の波で罹患し迷走した油彩画、高度成長で生まれた大衆アート「日本ポップ」、一見ゴミ的現代アートへと続く。タイトルに「絵画」と銘打ちつつも実際には「絵画」にとらわれない広義の絵画的作品を網羅して(写真、ビデオ、彫刻は除外)、日本画壇が歩んできた100年間を表現しようとしている。実に意欲的。チャレンジャーである。
明治・大正・昭和の激動の歴史の中であんなことも、こんなこともありました。そんな間にも日本画壇ではこんなにたくさんの、いろんなもんが創作され続けたんだよ、と。それを実感させるだけの物量はじゅうぶんであった。ただ惜しいかな、大上段に振りかぶりすぎてコントロールが若干はずれた感じは否めない。そう、焦点がぶれている。作品を集めすぎて散漫な印象。テーマが壮大すぎるのか。
新たな発掘はいろいろあって楽しめたが、これだけ数があるんだからそれがなきゃ困る。丸一日がかりで600点以上を観て最後に残ったものは、2会場を梯子した肉体疲労と、情報の一時的過剰摂取による混乱。そして結局「なんだかもーわからんが、アタシはやっぱ日本画がいちばん好きだ」と再認識したという。まるであれだね、フリーマーケットを見て廻ったあとの状態に似てなくもない。
明治時代の急速な西欧化に対する画壇の混迷振りは面白い。油絵画法とそれに伴う表現技法といった新しい風を積極的に取り入れようとするあまり、西洋かぶれの匂いがするし、不安定。今見ると少し気恥ずかしくもある。とりわけ山本芳翠作『浦島図』は技術的にいかにすぐれていようとも、和洋折衷にムリがあって滑稽感さえただよう。なにも浦島太郎を描くのに、イコンやギリシャ神話を描くときにみられるような西洋的神々しさを演出しなくてもよいのになぁと思ってしまった。海神はもろにポセイドン風だし。あるいはパロディのつもりなのかな。
さて以下はまったくの余談。
日本現代アートの雄・草間彌生さんの作品について。無数の突起物に覆われた鏡台と脚立の2種類の謎のオブジェが展示されていた。同行のR嬢によれば「彼女の恐怖するブツを作品に転嫁することで、己の恐怖を昇華しようとしている」のだとか。「へー、なるほど」。そこで納得しておけばいいものを、アタシったら言うに事欠いて「えー、それって、もしかしてアレ(白いけど)うんこ?」などと。草間さんには学校とかでうんこを洩らしてしまった悲しいトラウマがあるのかしらなんて本気で思ってしまったのである。ごめんよ、小学生並みの発想で。だって大きさといい形といいそんな感じだったんだ。するとR嬢、今度は声を潜めて、
「男性生殖器……」