香田さんのこと


イラク人質殺害事件に関してはもう少し早い段階で書くべきであったかもしれないが、事件の推移を見守っていたほうがいいかなと控えていました。
第一報が入ったときには「なぜ、今?」という気持ちだった。もちろん念頭には新潟の地震のことがある。テレビのニュースのほとんどが地震関連になっているように、アタシの求めている情報もそれだった。避難した10万人の人たちの行方はどうなる、余震はいつまで? 行方不明の親子の救出活動が本格化した頃だった。ゆえにこの一報が入った瞬間には「なぜ、今なの? なにもこんな大変なときに事件が起こらないでもいいじゃない」と。非人情のそしりはまぬがれないが率直にいうとそうだった。
当初人質は自衛隊関係者らしいという噂があった。すぐに一般人らしいと情報は錯綜し、最終的にはニュージーランドへのワーキングホリデーに行っていた学生だということがほぼ確定した。少しずつ現地の情報が入りはじめ、彼の足取りを追うVTRが放送され、彼と接触イラク行きをやめるように説得したホテル従業員やジャーナリストたちの談話が伝わる。「危険だからやめるようにと言いましたが、彼は『なんとかなります』と」。恣意的ではなかったにせよ彼の行動の「軽率さ」がクローズアップされていった。
彼は確かに軽率だったと思う。が、哀しいかな、彼の「なんとかなります」という感覚がわかりすぎるほどわかってしまう感がある。こうした感覚は、団塊ジュニア以降の日本人の多くに共通するものではないだろうか。海外旅行は当たり前で、ワーキングホリデーに行く程度の思い切りはあるけれども、青年海外協力隊に参加するほどの自信はまだない、みたいな。なにがやれるかわからないし、まあ別になにかしなくても生きていけるし、というまったりとしたモラトリアム意識。生まれてから今まで中流の家庭に育ち、経済的に苦労したという記憶はほとんどなく、大学に行くのは当たり前で、常に庇護されてきてもその自覚に乏しい。困っても最後には誰かが助けてくれるし、周囲の人間はおおむね親切だ。人間の根っこはおんなじだから、だから何処へ行っても「なんとかなりますよ」と。世界の不幸は自分のところだけ避けていくはずだろうという根拠のない自信。それはおおよそ正しいが、おおよそにすぎないことには普段は気づかない。こういう感覚を持っているのが香田さんであり、多くの若者像であり、アタシだ(若くないですけども)。
香田さん以前にイラクで犠牲になった方々には各々に崇高な任務や思想というものがあった。外交官だったりジャーナリストだったり、激論を招いた最初の人質事件の3名はかろうじて一般人ではあったが、凡百には理解しがたいほどのボランティアスピリットに突き動かされていて、素直に一般とは言いがたいある種エイリアン的な感じがした。なんとなく素直に同情しがたいような雰囲気のせいで自己責任理論なんてものにまで発展してしまったのはそのせいじゃなかろうか。ところが彼らに比べて香田さんはあまりにも普通の人である。事件発生後のご両親のコメントも過去の3名のときに比べると、当たり前なほどに的確だ。アタシの親だったとしてもおそらく似たようなことを言うだろうし、言って欲しいと思う。そこには共感がある。香田さんの行動の正否はともかくとして、詳細を知ればしるほどに「アタシだったかもしれない…」と同化できてしまう。「最悪の結末」の可能性が高まるにつれ、やるせなさが募り、人質になったVTRで彼が唯一語った自分の言葉であろう「すみませんでした」がすごく胸に痛い。わかったよ、もういいからね、もう…大丈夫とはいってあげられないけれども。
謹んでご冥福をお祈りします。