ひさびさの更新


ちょっとめんどくさいなと思い込んだら、とんとんとんと4日ぶりの更新になっていた。まあ、だいたいそんなもんだ。ってなにがじゃあ。
日曜日は久しぶりに天気に恵まれたのでまとめ洗濯をした、というのは前半がウソ。普段は3日に一度くらいするところだが、活動レベルが下がっているときにはいろんなことがすべておろそかになるもので、前の晩、お風呂に入る前に着替えの下着を用意している過程で、風呂上りのを残して予備がもうないという事実に遭遇したのだった。ありゃ、一週間分もためてしまっていたか。というわけでまとめ洗濯をした。
洗濯機で水量:高で2回まわして干す工程はそれなりにさくさくとまあそれなりに、ところが夕方になって取り込んだ取り込んだばかりの洗濯物がふんわりとまさしくこんもりとした山を形作っているのを目の当たりにするや、ああ、これを全部たたまないといかんのね、とほほという気分になった。
これでもアタシはまだ一人分だからよいようなもの。普通の家庭の主婦で例えば子供が二人とダンナ一人の四人家族の場合、これとおんなじくらいの洗濯物が毎日毎日、まいにちまいにち…うぎゃ。どうしてそんなことに耐えられるんだろう。家事には際限がない、際限がないってのは当たり前だが終わりがないってことだ。死んだら終わるが、それまでは続く。
仕事だって際限のない仕事はある。例えば経理の伝票処理とかは、終わっても終わってもまた月末になると日付と金額がちょっと違うだけでほとんど変わりのない伝票がそこに待っている。でも「うんざり」と引き換えに「給料」という名のお小遣いがもらえる。これはとても楽しい。額にもよるが、やはりないよりはぜんぜん楽しい。「ふんっ、金のためだぜ!」と開き直ればある程度のストレスも我慢できる。
一方専業主婦には「給料」のような明確なものはない。ダンナが持って帰る「給料」はダンナの勤労報酬であり、たとえその中に法的に離婚の際に認められる半分の内助の功が入っているとしても、自分の労力を評価されて支払われてという直接的な喜びは薄いし、家族もそんなふうに思っていちゃくれまい。なんだか報われねーなぁ、という厭世観の中で今日も昼ごはんをつくって片付けてお茶碗を棚にしまう。子供が帰ってきて冷蔵庫の中を覗く。「ママ、なんか食べ物ない?」。なんかを工面してやって、すぐに夕ごはんの支度をして、また茶碗を洗って鍋を洗って、棚に仕舞う。一眠りしてもまた翌朝には朝ごはん…、ふう。人がいれば、部屋は汚れる、汚れ物はでる、ご飯も用意せにゃならん。こんな永久ループにどうやって耐えているんだろう。そこに「愛」がなければとても耐えられそうもない。ねえ、愛があるの? 「そんなのもうないって」なんて言う声がしたような気もするけども、うーん、自覚していなくてもきっときっとあるんだよ。
アタシもせめて自分を愛する、ぐらいのことはしてやろう。だからたたむのさ。などと夢想しながらアタシは自分ひとりの一週間分の洗濯物の山をなんとか畳みきったのだった。